子ども4人不登校からの学び

まったく何様だよ。頼りにならない夫を持った話。

ありがたいことに、身近な人たちからは「金丸夫婦は素敵な夫婦」みたいなイメージが定着してるように感じる今日この頃。

結婚22年、出会った頃からすると約24年同じときを過ごしてきた私たちも振り返ればいろいろあったし、今でもお互い話しにくいことから逃げ回ってばかりだったり、いろいろあるけど。

随分と大人になった部分も本当にたくさんある。

それは人生に起こる予期せぬ様々な出来事が私たちを育ててくれたということだろう。

子どもを授かる前、結婚して2年くらいは2人で暮らしていた。
その頃は本当に自由気ままだった。

2人とも介護職で不規則勤務だったけど、
休みが重なれば都会に遊びに出かけたり、家にこもってTSUTAYAで借りてきた映画を観たり。

雑貨屋さんを巡ったり、美味しいものを食べに行ったり。
私を狭い世界から連れ出してくれる夫との時間は何にも代え難いものだった。


第一子、長女が生まれた頃というのは私も必死だったこともあり、当時夫への不満を感じた覚えはなかったと思う。

第二子、次女が生まれてから私の中に夫に対する怒りがふつふつと沸いてきた。

長女と次女は間が1歳半しかあいておらず、年子のようなものだった。まだまだ甘えたい盛りに姉になってしまった長女と、生命維持のために乳を求める次女の2人の育児はなかなかに大変だった。

泣いてる2人を両手に抱え途方に暮れることもあった。それでも子育てってこういうものなんだろうとどこかで感じてるところもあったかもしれない。

私が夫を許せなかったのは、私が大変な状況であるにも関わらず自分のやりたいことを優先させたからだ。

たぶん子どもの世話を一緒にしてくれないとかそっちよりも、「困っている私を見捨てた」と私が感じたことと、当時の夫もまだ若くいろいろと学んだりしてなかったから、言葉が足りなかったり感情をあらわにしたりしていたからだ。

ときに、そんな感じで夫に怒りを覚えながらも私は2人の娘が何かできるようになったことがあれば
「お父さんビックリするね!」

嬉しいことがあれば
「お父さんにも教えようね!」と、事あるごとに仕事で不在の多い父親の存在を娘たちと共有していた。

幼い娘たちが「お父さん」「お父さん」と駆け寄っていくのは、そんな私のおかげだと自負していた。
でも、それを意図してやっていたわけではなく、純粋に私が夫の存在をいつも感じていたかっただけなのかもしれない。

その後、長男、次男が生まれ私は少しずつ、そして確実に肝っ玉母ちゃんになっていった。
ちょっと何かがあったくらいでは動じないし、動じたとしても頭の中は冷静に次にやるべきことを考えていたり。

同時進行で夫はどんどん頼りにならない存在になっていった。

4人の子育てで日々いっぱいいっぱいの中、義父が病に倒れ、夫は仕事を辞め農園を継いだ。

その頃が私の人生の苦しさのピークだったのだろう。

毎日家にいるようになった夫にイライラや不満が止まらない。

ただそれを口にすることはできなかった。

「私がこれだけ一日中動き回ってるのに、よくそんな呑気なことしてられるよね。」

「ゆっちゃんも少し横になって休めし。」と言ってくる夫に
「は!?私のどこにそんな暇があるの!?見ててわからないの!?」

全部心の中で言ってた。

家庭は私が1人で回してるように感じてた。

弱音を吐くとか頼るという選択肢は知らなかった。

「何かやろうか」とか「手伝うよ」という声かけはしてくれたこともあったのだろうか?、、、と今思い返してみたけれど、
子どものことも家のことも全部私の仕事で、それをやるのは自分の役目だと思っていた私は、声をかける隙も与えないほどだったのかもしれない。

たとえ声をかけてくれてもお決まりの「大丈夫」を口にしていただろう。
(全部自分でどうにかしなければいけないという呪いがかかってた)

そのくせ「何もしてくれない」「何もわかってない」と心の中で文句を言うのだからタチが悪い。

そんなふうに夫への苛立ちや不満を抱えながらも、夫にひどく気を遣っていたのも事実で、

子どもたちの世話や家のことをしてもらうのは申し訳ないことだから、そんな状況が生まれたときや私が具合が悪くて寝込むようなことがあれば「ごめんね」という言葉やオーラになっていた。

子どもたちが小さい頃は、私の実家にも時折泊まりがけで遊びに行っていたけど、そこでも私は夫に気を遣っていたし、母もまたひどく娘婿に気を遣っていた。

私は心の中で
「え、実家って私が緩みに来る場所じゃなかったっけ!?」なんて思っていた。

夫は家にいても義実家にいても変わらず呑気にゴロゴロしていた。
(今ならわかる。私がそうさせていたのだと。)

その頃、夫のことばかりでなく母親に対しても苛立ちが出てきた時期で、実家にいても居心地が悪く私は心から休める場所がなかったのかもしれない。

夫への不満もピークのあるとき、

いつものように「まったく何様だよ!」と心の中で夫に叫んでいて私は

大変なことに気づいてしまった。



「私だ、、、、、」


「な に さ ま だ よ」


「何様だよって、私が何様だよ、、、、、」


私はガツンと頭を殴られたような気分だった。

いつも不満ばかりで心をいっぱいにして、本人に直接文句を言うわけでもなく、極め付けは自分の方が完全に上だと思っている傲慢さ。

「おまえ一体何様だよ」、、、、、、


「何もしてくれない」「何もわかってない」

じゃあ私は夫のことをどれほどわかっているのだろう。

父親が倒れ、好きで選んだ仕事を辞め家に入ったはいいが、わからないことだらけの農業を前にしてどんな気持ちでいるのか。

そんな彼を「自分で決めたクセに」「しっかりしてよ」「私はこんなに頑張ってるのに」と心の中で責めるばかりで、気持ちに寄り添いわかろうとしたことがあっただろうか。

いつでも自分が上な気がして彼を責め続けていた自分に愕然とした。


そして、もう一つ本当に大切なことに気づいた。


これまで私が本当に辛く精神的に参っているときや、子どもたちの病気や怪我で不安がっているとき、
事故にあったとき、大きな地震のとき、

他にもたくさん、
窮地に追い込まれたときにいつでも真っ先に駆けつけてくれ、「大丈夫」と何度も伝えてくれ、
力ずくで笑わせ安心させてくれたのは他でもない夫だったということに、、、、、。

だけど、そのことに気づいたのはいいけど、じゃあどうすればいいのかは当時の私にはまだわからなかった。

そしてしばらくの間悩み、出た答えは

「夫を心から愛したい」だった。

不満だらけの相手に愛情を感じるのは正直難しかった。

でも子どもも生まれ、ときが経てばみんなこんなものと言い聞かせてる部分もあった。

それでも心の奥底ではやっぱり、深い絆を求めていたのだろう。

仮にも結婚したときには、病めるときも健やかなるときも一生を共にすると誓い合った相手だ。

私はもう一度心から夫を愛したいし、愛されたいと思った。

子どもたちの不登校も重なり、私は心のことを学ぶ機会が増えた。

夫との関係を良くしたいと思って取り組みはするが、最初からそんなにうまくはいかない。

こちらばかりが関係を良くしたいと頑張ってるみたいで悔しかったり寂しかったりもした。

そんなモヤモヤを感じているときにワークショップで出会った男性にそう打ち明けると、
「先に知った方、先に学んだ方からやるんだよ」と優しく教えてくれた。

それは私に勇気を与えてくれる言葉だった。

私にはできる。
私たちにはできる。

心から笑いあえる日を思い描いて、私は行ったり来たりしながら少しずつ進んだ。

そして今、

私たちはあの頃よりもお互いをわかり合い、わかろうと努力し、

不満はなるべく感情的にならずに伝え、

ときには感情的に言い合いもしながら、

みんなの目に映るままにラブラブな日もあれば、ギクシャクしてる日もあり、

毎日変わる、、ヘタしたら1日の中でも幾度となく変わるお互いの気分や温度を

ただそのままに受け入れ、楽しんでいる。

、、、なんて書けば綺麗なものだけど、

「マジで腹立つわ〜、ムキーっ!」も

「えーー、なんでそんな優しいの〜、ほんと大好き〜!」も

共に生きてるからこそ起こることだと今はわかったから。

心から安心できる相手だからどっちも生まれるって今はわかったから。

だからギクシャクとか変な感じで布団に入る日も、「ありがとう」って感謝で眠りにつけるようになった。

そんな自分を「私ってすごい!」と思えるようにまでなった。

まあ、最近は精神的に落ち着いてるからそんな感じだけど、
全然そんなふうに思えなくて怒りや罪悪感まみれのターンもある。

でもそれもまたよし。

あるよね、

うん、あるある。

夫を心から愛したいと取り組んできた結果、

おまけで自分のことも愛おしく思えるようになった話。

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勇気づけアドバイザー金丸由貴子

勇気づけアドバイザー

金丸 由貴子

47歳。果樹農家の嫁。元介護職。 4人の子どもたちが次々に学校に行かなくなり人生を問いただされた39歳から8年経過。 夫とともに自己探求しながら、毎日みんなで笑顔で過ごせるのが何より大事ということに行き着く。 2023現在、長女21歳、次女19歳、長男15歳、次男13歳。