今日立ち寄ったコンビニでスーツ姿の夫婦と中学校の制服を着た親子連れを見かけた。
「お、卒業式だな。」
夫が言った。
「そっか、、、そうだね。」
昨年長女が卒業したときのことが思い出された。
そういえば『つなぐ会』の中にも、卒業式に子ども本人が行きたくないとはっきり言う前に「行かなくていいよ」と言ってしまったことが良かったのか、、、という思いで揺れ動いていたお母さんがいた。
このお母さんの気持ち、私も本当によくわかるし「つなぐ会」の他のお母さんたちも共感していた。
でももし親が「行かなくていいよ」と言う前に子どもが行くことを選んだら、それはそれで「無理してないかな?」「親のためにそう決めたのかな?」なんて考えてしまうだろう。
何を選んでも正解も不正解もないのはわかってるんだけど、それでも親はいつだって子どもにとって最善の選択をしたいと思うものだ。
楽な方を選ばせちゃったかな!?
そんなふうに不安になる気持ちもわかる。
仮にそうだとしても、楽な方を選ぶのは人間なら当然のことだしいけないことではないとも思う。
ここで楽な方を選んじゃダメだとか、ここは無理してでも頑張りたいと思ったら子どもは自分でそういう選択をするだろう。
昨年長女が卒業したときに、かつてお世話になった先生からの一見すばらしいエールともとれる言葉。
『4月、新しい環境、自分を変えるチャンスです。新しい気持ちで新しい自分で頑張ってください。』
これでは途中から学校に行かなくなった娘を完全に否定している。
この言葉にガッカリしたのは本当のことだが、ある意味娘を心から信じてくれてるから出てきた言葉だ。
「あなたが悩んだり困ったりするなら、まわりにもっと悩んだり困ったりした方がいい子がたくさんいる」
というようなことをいつも言ってくれていた。
そう、娘は先生から見たら『ある程度なんでもできて、成績も困らない、行いも良い、全く問題のない子』だったのだ。
学校に行きたくてもなんらかの理由があって行けない子にとったら、「まわりに比べたらあなたはとても優秀で、何も心配はいらないし自信を持っていいんだよ」というメッセージはとても勇気づけられるだろう。
でも、学校に心底行きたいなんて思ってない子にとってはなんの意味もなさない。
ハッキリ言ってズレているのだ。(万が一このブログを読んでいたら先生ごめんなさい。でも先生は悪くないです。)
「学校が合わない子どもがいる」どうかそれを理解してほしい。
それは何も悪いことでも、劣っていることでもなく、
人間なら誰にでもある感覚、、、この集まりは好きだけどあの集まりはなんとなく嫌とか、あの場所は落ち着くけどこの場所は居心地悪い、、、というのと同じことだと思う。
大人なら嫌な場所なら行かないことも選べる。
子どもはいろんな意味で力がないから特に小学校低学年だと無理矢理連れて行かれる。
または、親やまわりの大人に言われるから本当は嫌で仕方ないのに心を殺していく場合もあるだろう。
その場合は心身に影響が出てきてしまう場合も、、、。
嫌なことから逃げてたら、この先の人生ずっと逃げ続けることになる?
困難に立ち向かえない子になる?
そもそも嫌なことや困難には立ち向かわなければいけないのか??
子どもが学校に行ってない親は、みんなみんなこういう思いと日々真剣に向き合いながら、子どもを信じて子どもの選択を尊重している。
私もその一人だ。
ただ先の心配を判断基準にしてきた結果、子どもたちには辛い思いをさせてきたから同じ過ちは繰り返さない。
揺れ動くのは確かだが、「何があってもこの子たちは大丈夫。今安心して毎日を過ごしてるし、やりたいことがあればやるし、
この先何か困れば自分で考えたり、助けを求めることができる。」そう信じて過ごしている。
本当はその力をつけることこそが生きるために必要なことで、学ぶべきことなはずだ。
不自由はするかもしれないが、字を書けなくても計算できなくても生きてはいける。
進学や就職のための勉強なんてやる気になったらいつだってできる。
そんなことより大事なことは、今ここの自分を肯定してくれる存在であり、その子が嬉しいこと、笑顔になることを考えてくれ、どんな悩みも打ち明けることができる存在だと思う。
でも、そうはいっても学校関係者の方々、そうそう理解できないと思います。
学校が合わなそうな子がいて、その子のためを思うなら、何もしなくていいですから、せめて「つなぐ会」か「金丸文化学園」の存在を教えてあげてください!
それだけよろしくお願いします。
昨年、長女の卒業の際に想いを綴った記事↓
不登校でも卒業。長女、中学校を卒業する。
一昨年、まだ学校に未練があった頃に小学校卒業を迎えた次女の卒業の際に思いを綴った記事↓
不登校でも卒業。次女、小学校を卒業する。