4人の子どもたちが不登校。
来る日も来る日も子どもたちは毎日家で過ごしている。
そんな日々を最初から『ガハハハ〜』って笑い飛ばせられたわけじゃない。
それはそれは悩み苦しみ悶え起き上がり倒れという月日を超えて今日まで来た。
それでも『行かなくていいな』と思えたのは割と早い段階だと思う。
その後は私自身の周りからの目や固定概念との闘いであり、それは長いことやってたかな。
行かなくていいと思えた理由はいくつかあるけど大きく分けて今日は3つ書いてみる。
まず1番は娘が身も心も壊れてしまうというほど大号泣したから。
次女ちゃんがあれほど泣く姿を見たのは後にも先にもあの時だけだろう。
見ているこちらが『もうわかったから、、、ゴメンゴメン、、、。』それしか言葉が出ないほどだった。
そこまで娘が追い詰められてたことに気づかなかった自分をずいぶん責めた。
しばらく休んだら行けるのかなとか思って家でゆっくり過ごしたけど、学校に戻ることはなかった。
娘が笑顔を失うくらいなら行かなくていいと思った。
幸い学校に行かないことは法に触れるとか何か悪いことしてることにはならない。
じゃあ法に触れたり悪いことしてることになれば学校に行かせるのか?
そう自分に問うてみても答えはノーだった。
もし学校に行くのと引き換えに娘の笑顔を失うのなら、笑顔を失わずに暮らせるところに移り住むしかない。
2つ目は、勉強はいつでもどこでもやろうと思ったときにやる方法はいくらでもあると知ったから。
不登校の親たちの多くは学習面を心配する。
私もその1人だった。
あるとき人には誰しも『知識欲』というものがあることを知った。
「知りたい」とか「学びたい」という気持ちは誰にでもあることなのだと知ったら、なんだか安心した。
そして今の学校教育はほとんどが与えられるものである。
中には子どもが知りたいこともあるだろうが興味のないことでもおとなしく机に向かい時間が過ぎるのを待たなければならない。
そんな状況で学びになってるとは到底思えない。
何よりも自分自身が学校で勉強したことで今まで生きてくるのにほんとに役立ったことってあったかな?と考えた時に、ほとんど思い浮かばなかった。
むしろ子どもたちの不登校をきっかけに講座などに足を運んだり本を読むようになって、学ぶことに歳は関係ないことを身をもって実感した。
何よりも自分が知りたいと思ったときが1番吸収率が良いのだ。
そして3つ目は、時代が全く違うということ。
戦後、日本は成長を遂げるために企業戦士を大量に作り出す必要があった。
大きな組織で上の言うことに従い、みんなと同じにすることが正しくて、文句も言わず真面目に働く人材を育てることが国の目的だった。
そんな教育を平成も終わり、ユーチューバーが憧れのお仕事だと言われてる令和になった今でも続けている。
スマホやパソコンを1人1台も2台も持つような時代だ。家事やら何やらも電化製品の進化でずいぶんと時間の省略ができたりもする。
ネットでなんでも調べられるしオンラインで世界中のいろんな場所や人とも繋がることができる。
そんな時代、子どもたちの方がよっぽど進化してるのに大昔のやり方にいつまでもこだわる必要はないしそれを押し付けられる子どもたちは可哀想だ。
というよりもうハッキリ言っちゃうと学校に行ってたらダメなんだよ。
一つ目の理由に書いたように、今の学校は子ども一人ひとりの笑顔や輝きを失わせてしまう。
楽しく行ってる子もいるし、大人から見て楽しそうに過ごしてる子もたくさんいるだろう。
それでも古いしきたりの中で、ちょっとした先生の言葉やクラスの雰囲気に自信をなくしたり否定されたりする場面は必ずある。
そんなのどこにいても同じだと言いたい人がいるかもしれないが、子どもに学んでほしいと思うなら、まず子どもが安心できる環境が不可欠だ。
間違っても失敗してもそれを丸ごと受け入れてくれて、それも大きな学びだねとみんなで分かち合うような雰囲気が欲しいのだ。
こういうこと書いてると、少しくらい嫌なことも我慢して経験するのが大事。むしろそれをさせるのが親だとか言う人もいるのだけど、
嫌なことも我慢も、生きてればいくらでもあるし、わざわざ大人が用意しなくても必要なら子どもはそれをちゃんとできるのだ。
まぁ、うちの場合はまさにその我慢させるのが大事だと思ってやり続けた結果が娘の大号泣に繋がったわけで、自分で書いてて耳の痛い話というわけ。
小学校低学年で、読み書きも学ばないまま不登校してるご家庭ではさぞかし心配してることだろう。
うちも長男は2年生の途中で行かなくなってるし、末っ子は読み書きがはじまる前に行かなくなっている。
たし算、ひき算、かけ算、わり算、分数、、、。
ひらがな、カタカナ、漢字、、、。
せめてこれくらいはできててほしい、知っててほしいと思うことを今はまだ知らない。
それでもYouTubeで難しい漢字を読んだり難しい言葉知ってたり、知らぬ間に時間や季節の観念がわかるようになったり驚かされることは多々ある。
1年生でこれを習得、2年生でこれ、3年生でこれ、、、というのはいつかの誰かが勝手に決めた事だ。そんなもののとおりに学ばなくたって本当はかすり傷さえできない。
だからね、もう「子どもを信じる」ことこれに尽きるわけですわ。
学んで欲しかったら、まず諦めること。
勉強もしないで好きなことばっかりやってる子どもたちを受け入れる自分になることですわ。
大変だよ?
ほんと修行ですわ。
でも、子どもはどんな自分であろうとありのままの自分でいられる環境があって初めて自分の好きなことできたり学んだりができるのですわ。
子どもたちのおかげで、まあ成長させてもらえますわ。
最後なぜか関西弁で終わり笑
追記: あ!そうそう4人不登校は3年前までで、上の2人の娘は義務教育を終えてます。