先日、夫婦で活動している金丸文化学園の「カチあるジュギョウ」を久しぶりに開催した。
お友だちの肥後夫妻を講師としてお招きして『エニアグラム入門講座』を行っていただいた。
その講座の中での一コマ。
スタートしてすぐに絵を描くワークがあった。
お題は『あなたの幼少期の夏の思い出』
主催側なので、絵を描くワークがあるのは聞いていて、描けない私は最初聞いたとき、「絶対やだ〜( ;∀;)」って思ったんだけど、
「どうしても絵を描くのはちょっと、、、という人は文字でもどちらでもいいことにします」と聞いてたので、
最悪は文字で書けばいいやと当日に臨んだけど、なるべく絵を描くつもりではいた。
まわりではお題を聞いて間も無く絵を描き始めてる他の参加者が何人もいて、躊躇することなく一生懸命画用紙に向かう姿に気後れする。
私も、夏の思い出、、、夏の思い出、、と幼い自分に思いを馳せる。
でも、頭の中に浮かんでる光景は、まわりでクレパスを走らせてる人たちのそれとは、どう考えても違う気がしていた。
それでも、最初に思い浮かんだのがこの光景だもの。
みんなに寄せて書いたところで、このワークの目的は果たせないこともわかってるし、その思い出を絵に描こうと決める。
ところが、とてもその光景を描ける気がしない。
私は観念して文字で書くことにした。
そして迎えたシェアタイム。
案の定、夏といえばそうだよねという思い出の数々が披露される。
思い出として焼き付いているある一場面を描く人もいれば、思い浮かぶいくつかのことやものを描く人もいた。
どの作品もその人らしさを表す温かいものであったり楽しいものであったり、喜びが伝わってくるものだったりで、
それぞれの描く絵について、そのとき感じてたことや体の感覚なんかを講師が質問していた。
私は自分の番が来るのが恐ろしかった。
私の他にも1人か2人は文字の人がいるだろうとの淡い期待も虚しく、私以外は全員絵を描いていたのだ。
「絵心がなくて」とか「下手くそで恥ずかしいんですけど」と言いながら絵を見せる人が何人かいたけど、私から見たら「全然描けてるじゃん( ;∀;)」て感じで。
私は隣にいた夫に「もうヤダ、ほんと無理、ほんと消えたい」とブツブツ言っていた。
私の番が来た。
「頑張って絵を描くつもりだったけど、思い浮かんだ光景が描ける気がしなかった」との言い訳を前置きに、私は説明した。
『家の中の窓のない部屋、夕立で稲光や雷の音が怖いから、布団をかぶってゲームウォッチをしている。母と兄も一緒にいる』
つまり、稲光が光っても見なくて済むように、家の中心部にある窓のない畳の部屋に避難して、音もなるべく聞かなくて済むように布団に潜って、少しでも気がまぎれるようにとゲームウォッチをしているという光景だ。
海もスイカも出てこない、エピソード自体なんか暗いw
なんだかとっても恥ずかしかったけど、
これが私だ。
受け入れるしかないw
タイプ4は、「独特さ」
エニアグラムを学ぶ前は、自分の考えることが人と違うみたいで、たぶん無意識に隠してたと思う。
エニアグラムを学んだことと、今回の講座での気づきはかなり大きかった。
私はタイプ4だからこそ、あのときあんなに傷ついたんだ。
タイプ4だから、家族のあの関わりによって自分の存在の意味がわからなくなったんだ。
ということを深く理解できた気がした。
そして、もし神様がいたとして、
「おまえは今回の人生ではタイプ4を生きるんだよ」と送り出してくれたとしたら、
私はそれを全うしたいと思った。
そしたらこの先また何か辛いこと苦しいことにぶつかって、もう自分をやめたくなったとしても、「神様が4を授けてくれたんだった。4だからこそ直面してるこの苦しみを味わい通過することが私のやることなんだ。」って、また顔を上げれる気がするから。
ちなみに、今回の夕立のエピソード、
「母も兄も別に恐くないけど、雷が死ぬほど苦手な私に付き合ってそばにいてくれた」
そんな気がするのは、タイプ4故に私が作り上げてしまった妄想なのだろうか、、、。
たとえ妄想でも、そこにハートが喜んでる小さな私がいるんだから、それでいいよね(╹◡╹)