久しぶりにブログを書いています。
かつては不登校への理解を広めたいと使命のように感じて毎日のように熱く書いていた時期もあったけど、子どもの成長とともにいつしかそんな気持ちも薄れていき、随分長い間書いていませんでした。
そんなわが家ですがこの春末っ子が中学を卒業し、子どもたち全員の義務教育期間が終了しました。
学校とはほとんど関わってこなかったので、いわゆる「卒業」という形での感慨深さは正直あまりないのですが、2015年をスタートに約11年間当事者だったのが区切りになるのだな、、、という感じです。
「子どもを学校に行かせること」が親の義務だとすれば私たち夫婦は義務を果たせていません。
でも教育を受けさせることが義務だとすると、完璧ではないにしろ多少の義務は果たせたのではないかなと思っています。
そんな中で、当時よく考えていたのが「教育ってなんだろう?」ということでした。
これは辞書で引けばそれなりのことは書かれているけども、どれも学校に行かなくなってからはピンとこないものでした。
教育って簡単には言葉にできない。
それが不登校に直面してからのこの11年子どもを見守ってきた私の正直なところです。
でもあえて言葉にするならば、一番近くにいる大人たちが
「あなたはそのままで大丈夫」という眼差しで見守り続けることなのかなと思っています。
みんなが必ず心配する、
読み書きや社交性、
規則正しい生活や何かをやってみたいと思う気持ち。
そんなものは全部心の土台があってこそだと私は痛いほど知ったからです。
人はみんな、生きる力を備えて生まれてくるといいます。
それは
食べることであり、
立ち上がることであり、
いろんな感情を味わうことであり、
人に優しくすること。
できないことができるようになること、
できないことは人に頼ること、
頑張ったらなんとかなることを知ること、
頑張ってもどうにもならないことを受け入れること。
子どもは本当は万能で、成長とともにそれが様々な環境の中で少しずつそうではなくなっていってしまう。
だから大人ができることがあるとすれば「邪魔をしない」これに尽きると思っています。
大人は子どもの邪魔ばかりします。
自覚なく華麗に邪魔をするからタチが悪い。
そんな大人たちに惑わされず子どもたちにはのびのびと生きてほしいのです。
きっと子どもの方が知ってるのだと思います。
どんな夢を思い描くのも自由であり、
その夢を追いかけるのも追いかけないのも自由であること。
夢がないことは悪いことではなく今が幸せならそれで十分であることさえも。
かつて私の書いた記事に「親のエゴ」だとか散々な批判コメントがついて泣いたこともありました。
でも私なりにその都度自分の信じる部分を確認しながら進んできて今の所家族全員何も困ったことにはなってないし、相変わらずそれぞれ日々を生きています。
不登校がメジャーになり、居場所や通信制の学校がたくさんできても現実はまだまだ不登校はネガティブな印象が払拭されません。
「不登校になったけど、別の場所で頑張ったね」ではダメなんです。
公立か私立を選ぶように
小学校に上がるタイミングでたくさんの中からみんなが選んで決めるのが当たり前の世の中にならないとダメなんです。
わが家はこれから不登校とは少しずつ離れていくことになると思います。
それでも、「子どもが育つ場所はどこでもいい」
そのことだけはこれからも伝え続けていきたいと思っています。