ひとりふたりと子どもたちが学校に行かなくなる中でつらいなぁと感じることはいくつもあったけど、
それまで仲良くしていたママ友たちと明らかに話が合わなくなっていくの、嫌だったなぁ、、、。
ママ友たちはそれまでと同じようにランチとか声をかけてくれて何も変わらずいてくれたけど、話題は相変わらず学校だったり先生だったり習い事だったりで。
変わらずいてくれることがありがたい反面そういう類の話には入れず「へ〜そうなんだ〜」なんて相槌を打ってその場をやり過ごすしかなかった。
私は居心地の悪さを覚え、もうそういう場に身を置きたくないと思った。
と同時に仲良くしてきたママ友たちと離れていくことはそれなりに切なくて。
でも果たしてそれぞれ子どもたちが中学生、高校生となっていく中でも変わらず繋がりおつきあいしていく人がどれだけいるのだろうかということも考えた。
当時は自分のまわりに不登校の家庭はなかった。
というより、あったのかなかったのかもわからなかった。
子どもが学校に行きづらいとか行かなくなって教育委員会に相談に行く人もたくさんいる中で、どうしてわが家にはそういう選択肢がなかったのか今でも時折不思議になる。
私がまず頼りにしたのは保健の先生。
そしてスクールカウンセラーだ。
月に一度程度のスクールカウンセラーとの面談を心の頼りどころにしていた。
「お母さん、絶対大丈夫よ!」
そんなふうに明るく声をかけてくれた年齢で言えばベテランの域の女性の笑顔に、当時の自分が救われていたのは事実だ。
でも自分でもいろいろと情報を集めたりネットで当事者の記事を読んだり学校に対する考えが変わっていく中でそのスクールカウンセラーには違和感を覚え面談をしてもらうのはやめた。
いま「金丸文化学園」として居場所作りしているけど、当時の私がそういう場所があると知ったら出向いていただろうか。
きっと初期の段階では足が向かなかっただろう。
学校に行かなくなって、子どもも傷ついてるけど親も傷ついてる。
自覚はなくてもバリアを張り巡らせて体に力が入った状態で必死に立っている。
買い物に出た先での他人の目、親や親戚からのプレッシャー、学校とのやり取り、自分の中の自分、、、様々なものと戦っている。
そんなときにはやっぱりそういう場所へ行ってみよう、困ってることを打ち明けてみようとは思えないものだ。
いくらか心が緩んで、いくらか視線が上に向いてはじめて一歩前へ進んでみようかと思えるのだ。
それがどのくらいの期間なのかはわからない。
人によって違うだろう。
もしこれを読んでいる中でいまとても苦しんでる人がいたら、どうか焦らないでほしい。
大丈夫だなんて思えない人がいたら、その思えないままで大丈夫。
いつの日かあなたが文化学園じゃなくても、どこかそういう居場所に出会えることとそこを訪れてみる日を私はいつまでも待ちたいと思います。