学園の活動を通して日々新しい出会いや繋がりに恵まれ、大変ありがたく思っている今日この頃。
そんな中、わが家のこれまでってどんな感じだったの?って聞いてくださる方も多く、良い機会なので自分の振り返りも含め記録してみたいと思う。
まず不登校がはじまる前のことを簡単に、、、。
夫も人に話す機会が多いこの金丸家の転換期であり私と夫の人生の転換期、それは父(私にとってはお舅さん)が病に倒れたことだ。
県議会議員を3期も務め上げ、最後の選挙ではトップ当選も果たした義父は、嫁の私から見てとても人望のある人で、地域の人や困ってる人の話には耳を傾け、できることは迅速に対応する誠実な人というふうに映っていた。
政治家として当たり前といえば当たり前なのだが、中にはうわべだけというふうに庶民の目に映る人もいる中で義父は真面目で誠実で努力家だった。(私も義父のことをそんなに深く理解はできていないとは思うけど、そんなふうに感じていた)
そんな義父が倒れたのは議員を3期、つまり12年間のお務めを終え、これからやっと自分の余生を楽しめると思われた矢先のことだった。
当時夫は老人施設で不規則勤務で介護を、私は4人目の末っ子が生まれて半年で専業主婦として忙しい毎日を送っていた。
義父は脳梗塞だった。
幸い一命を取り留めたものの、その日を境に寝たきりとなってしまった。
歩くことも話すことも食べることも全て失われた。
一番辛かったのは本人に違いないが、忙しい日々から解放されやっと義父が好きなことをして過ごせることを私なりに良かったなぁという想いでいたのでとてもショックだったし、なかなか受け入れられずにいた。
長い入院生活を経て、本人の頑張りと義母の献身的なお世話の甲斐もあり退院できる見通しが立ってきた。
義母はできることなら家で介護したい。
夫も介護の仕事をしていたので家で看たい気持ちがあったようだ。
うちは果樹農家なこともあり、畑をしながらなら時間とかいろんな融通もきくし家で義父を介護しながら農家を継ごうということになった。
私はというと、ちょっと待ってよという感じだった。
「気持ちはよくわかるけど、うちには4人の子どもがいるんだよ。この先お金がかかるばかりなんだよ。」と正直に夫に不安をぶつけた。
夫は義父が倒れたことで、人はいつ何が起こるかわからないことを痛切に感じ、後悔したくないんだと私に言いった。
そう言われると私はもう何も言えなかった。
「大丈夫、なんとかなるから」との言葉に私も「そうだよね、なんとかなるし、ならなかったらそのとき考えよう。」
と気持ちを切り替えた。
義父の退院を前に、ある年度末夫は17年間続けてきた介護の仕事を辞めた。(何年前なのかわからないw ざっと7年前くらいかな)
義父が帰ってきたときのためにお風呂とトイレをリフォームした。
現役の頃夫が足しげく通ったおかげで習得した移乗技術での入浴ができるように浴槽はもちろん、手すりの場所や洗い場なども万全に整えられた。
夫は退職を境に毎日家にいるようになった。
正直調子が狂った。
家の中で何をしていいか、どう過ごしていいかわからないようだった。
畑仕事も何がわからないかわからない状態で手のつけようがない。
私は私で相変わらず忙しい毎日を送っていた。
その頃はまだ家のことも子どものことも全部自分がやるのが当たり前だった。それに加え毎日義父の付き添いで朝から晩まで病院で過ごす義母にかわり母屋のあれこれもしていた。
暇そうな夫を見て、「私がこんなに忙しい思いしてるのを見ててわからないのかな!?少しは手伝ってくれたっていいじゃん。」なんてことを思ったと思うけど、全部自分の胸にしまいこんでいた。
子どもたちが保育所や学校に出払っている時間でも動きっぱなしの私に
「ゆっちゃんも少し座って休めし」なんて呑気な言葉を言われたときには、
「どこにそんな暇があるの!?」って言い返したこともあったけど、
当時の夫にしてみれば自分も参加すべき家の仕事という認識はないし「大変だねぇ、、、」と完全に他人事。
そして当時の私も忙しく動き回ってないと自分に価値がないことになってたから一日中なんやかやとどこも中途半端な家事をし続けるのは仕方のないことだった。
私は胸にしまいこんだ不満が積もり積もって限界を迎えると爆発し、そんな私に悪かったと夫が反省してちょっとの間は平和が訪れるけどだんだん元に戻って私の不満が積もり、、、ということを繰り返していた。
畑の時期になると私は保育所の一時預かりを利用して預けられるだけ末っ子を預けて農作業に入った。(畑の時期だけだし、完全に保育所に入所はまださせたくなかった)
結婚するときには「いつか自分たちが継ぐ日が来るんだろうか」というようなことはポヤンと考えてはいたが、まさかこんなに早く自分が野良着を着てお日さまの下、汗や土にまみれて畑仕事をする日が来るとは、、、。
ここでも私は現実を受け入れきれずにいた。
泣きながらサクランボの交配作業をしたあの日のことを今でもはっきり覚えている。
やりたくないことを「やってあげてる」から、農作業についてアドバイスされたり世話を焼かれることが嫌で仕方なかった。
夫や義母に何か言われるたびに内心怒りに震えていた。
今思えばなんてことない、脚立のかけ方とか、作業のちょっとした手順のことだったりだったと思う。
そうこうしているうちに義父が退院してきた。
ある朝突然この家から救急車で運ばれていき、何ヶ月もの間早く家に帰りたいと願いながら耐えた入院生活。
そんな義父は福祉タクシーに乗りストレッチャーで帰還を果たした。
すっかり義父仕様になった当時の寝室がこれからの生活の中心の場だ。
義父の帰宅を一緒に迎えてくれた弟妹夫婦たちも、家に帰って来れて良かったねという雰囲気の片方で、身動きのできない兄の様子を見て複雑な心境だっただろう。
義父も戸惑いよくわからないことを言っていた。
どんな生活になるのかみんなが不安を覚えながらも、とにかく家での新しい生活がスタートしたのだ。
不登校が始まるまでのことを簡単に説明するつもりが結構詳しく書いてしまったので、続きはまた次回に、、、。
その頃の夫婦の葛藤の日々はこちら↓
ナオアキユキコ夫婦の再生の物語①