今日は大好きなカフェに大好きなお友だちたちとランチに行ってきた。
結果6時間も喋り倒してしまった(~_~;)
長居しても嫌な顔なんてこれっぽっちもしない優しいオーナーさん、ほんと感謝です。
でも6時間経っても、もんそんなに時間経ってたの!?ってみんなビックリしたほどあっという間で。
お店の居心地がいいのもなんだけど、私たちには「子どもが不登校」っていうとっても素敵な共通点があるのだ。
ある日子どもが学校に行けなくなって途方にくれたこと、
なんとか行かせようと頑張ったけど親子ともに傷つき疲れ果てたこと、
学校に行かないのはいいとしても、どこか行けるところがないかと奔走したこと、
家庭が安全基地であるようにと家族のあり方を見つめ直し葛藤した日々、
もう大丈夫と思ってたのに、学校から帰る子どもたちを見かけて涙が出たこと、
そんな過程をみんな辿ってきている。
辛かった思い出も、やりきれなかった想いも、みんなに共通している。
だからどんな話しても大丈夫だし、ネガティヴな気持ちだって「うんうん」て頷きあえるそんな間柄になれた。
かつて私にはママ友がいた。それはみんなもたぶん同じ。
子どもが学校に行かなくなると、そのママ友たちは心配してくれたし変わらずランチに誘ってくれた。
声をかけてくれるのが嬉しくて参加してたランチ会もだんだん話題が合わなくなり、、、というよりは教育や子育てなどについて考え方が大きく変わってしまった私にとっては居心地の悪いものへと変わっていった。
それぞれはほんとに優しくて素敵なママばかりだったけど、やっぱりママたちが集まってする話はどうしても子どものことであり、学校のことであり、習い事のことであり、「うちの子の困ったところ」ばかりだ。
「子どもってすばらしいんだよ!」
「子どもがサッカー教室で臭くなった足の匂い嗅げるなんて幸せだね!」
なんて言ってみてもなんだか的外れで、私は当時とっても悩んでとっても悲しかったけど、ママ友の集まりに行くことをやめた。
大好きな人たちなのに、子どもが学校行かなくなったから付き合いが続けられなくなるなんてなんともやるせなかった。
しばらくはちょっと悲しい気持ちでいたけど、もう無理なんだと自分で受け入れてからは楽になった。
人生にはどんなに抗ってもどうにもならないことがある。
それを受け入れるのには時として痛みをともなうこともあるけれど、もがきながらも受け入れたとき体も心も軽くなる。
どう頑張っても
子どもがランドセルを背負う姿はもう見れない。
行ってらっしゃいと見送りおかえりと迎えることも。
お友だちと小突き合いながら帰ってくる姿も。
運動会で汗をかいて頑張る勇姿を見ることも。
先生がこんなこと言って酷いんだよ〜なんていう愚痴を聞くことも、みな叶わない。
これらは「学校に行くことがいいこと」っていう考えがあるうちはとても悲しい寂しいことになるわけだけど、
学校に行くことが全てじゃない。
ドラマに出てくるような、幸せの象徴みたいなこれらの場面がただの幻想だとわかれば痛くもかゆくも無いことなのだ。
とはいえ、、
とはいえ、、、、、
「行ってらっしゃい」って言いたいよねー!
お友だちと喧嘩しちゃった〜とか相談にのりたいし
「もう、しょうがないんだから!」って言いながら忘れ物届けたい。
そんな学校への幻想をときどき抱きながら不登校のママたちは泣いたり笑ったりしとります。
結局親は子どもが誰かと交わったり、親の元を離れて何かしている姿をみたいんだろうな。
不登校の子たちは元気にどこにでも行って誰とでも交われる子もいれば、家が好きでそんなに人と交わることを望まない子も多いだろう。
そこにどちらがいいとか、どちらの方が将来安心だとかはないはずで、
どちらでもいいし、ある日変わることもあるだろうし、大切なのは目の前の我が子をしっかりと見ていることなんだろう。
今日できなかったことが明日出来ることもあれば、今日できたことが明日できないこともあるかもしれない。
人間てそんなもんだろう。
何も決めつけずゆるやかに生きていきたいものだ。
私は今なんでも打ち明けることのできる友たちに出会えて本当に幸せだ。
人生は長い。子どもたちにもそんな存在が必ずできる日が来る。
それを信じて、まだ生きはじめてたった数年だったり十数年だったりの子どもたちを見守っていこう。