母と私は、数年前に仲違いをして以来これまでの関係が崩れ、どうにも修復できずにいた。
仲違いというよりは
私の一方的な反逆というべきか。
それからの3~4年ほどは本当に苦しく、私の中では様々な感情が渦巻き、まるで台風が2つも3つも一緒に来てしまい荒れ狂ってどうにもならないというような事態も幾度となく訪れた。
近しい人の中には、母との間に起きた出来事に悩む私の話に時折耳を傾けてくれた人もいる。
夫に至っては毎日のように「話を聞いて」と頼む私にいつでも寄り添い本当によく付き合ってくれたと感謝している。
心の学びをしているから、、、すぐに私は理想とされる親子のかたち、すなわち世の中的に正解とされるかたちを求めそこにおさまろうとした。
でもそれをやると苦しくて、いっそ恨み倒してもうこちらから連絡をとったりするのをやめようと考えてはみるけど、私の中で燻り続ける幼い私はそれを良しとしなかった。
必要とされたくて、いてくれて良かったと思われたくて、、、。
そこにいる意味が見出せない場所からは去る。
高校を卒業して以来私のこれまでの人生で何度も繰り返してきたパターンだ。
私はどこまでいっても気づくと無意識に
『親を困らせない聞き分けのいい子』
『頑張ってれば認めてもらえる』という方へと歩みを進めたがった。
『時間が必要』だと言い続けてくれた夫。
確かにときの流れと共に、ゆっくりと、
それは氷山のほんの一部分が溶け出すかのようにわからないくらい少しずつゆっくりと私と母の中でも溶けていくものがあったのだろう。
ようやく、
本当にようやくメールでのやり取りも以前のような気軽さまでにはならなくても、業務的なものではなくなった今年、転機は訪れた。
母が病気になったのだ。
命に関わるようなものではないにしろ、
これまでと同じ生活が送れるかわからなかったり、原因がハッキリしなかったりと母にとって、不安な日々が続いた。
看病する父も慣れない家事や病院の付き添いやらで大変だっただろう。
地元の病院での入院生活を経て、大学病院への転院が決まった。
実家からは山を越え1時間強かかる距離だが、私の家からは車で15分あればじゅうぶんに行ける距離だ。
私の出番だ、、、そう思った。
転院の日、何かと大変だろうと両親が着く前に病院で待機した。
父は初めて訪れる大学病院やら入院の手続きやらでテンパっていた。
こちらは夫と娘2人が一緒に行ってくれたから車椅子の母に娘たちが付き添って温かい場所で待っててくれ、
夫は父の車をかわりに駐車場に停めに行ってくれたりで大助かりだった。
私はというと入院手続きの窓口で父と2人必要な書類に書き込んだり判を押したり。
途中、『保証人』を書き込む書類があったときに父が
『これ、お前が書いて』と言ったその言葉が本当に嬉しくて嬉しくて。
母と関係がおかしくなってからは、ただでさえ普段から必要以上の会話はあまりなかった父とも距離が空いていた。
しばらく疎遠にしていた間に、すっかり歳をとった様相になった父。
子どもの頃からカッコよくて憧れの父だったが、そんな父も私を頼りにするような歳になっていた。
この数年特に何も出来なかったことを申し訳なく思うと同時に、元気に暮らしてくれてたことに感謝した。
不安いっぱいで大学病院での入院生活がはじまった母、2日目くらいまで症状もキツくネガティブなメールが届いて、
その内容に反応してる自分もいたが、
会うことはできないけど、汗をたくさんかくからと袋にいっぱいの洗濯物をスタッフさんに渡され帰るときは、やっと娘らしいことができると感慨深いものがあった。
治療が劇的に功を奏し3日目ともなると見違えたような姿の母に会うことができた。
すっかり体力が落ちているから歩くのもやっと。
それでも病棟の入り口まで来て直接私に洗濯物を渡してくれた。
日を追うごとに元気になっていく母。
本当に安心した。
短時間だがエレベーターホールの長椅子に腰掛け、肩を並べて話をした。
それは治療のことだったり先生のことだったり症状のことだったり。
私は時間の許す限り洗濯物や飲み物を届けるために病院に足を運んだ。
母の方から足りないものを言ってくれることが嬉しかった。
母もどんどん元気になり、椅子に腰掛けて話す内容も実家の方の近所に出たお葬式の話や親戚のことや、私たち家族の様子だったりたわいのないものだった。
そう、たわいのない会話。
私がもう2度とできることはないと諦めていた『母とのたわいのない会話』
夢のようだった。
何度もその光景を思い出してしまう。
母はというと、相変わらず
『忙しいでしょ、もう行きなさいよ』
というようなことを言いながらも嬉しそうなのが伝わってきて、それがまた嬉しくて。
じゃあまたね。
廊下の先の角を曲がるまで見送る私と、途中何度も振り返る母。
その度に私たちは手を振りあった。
まるで、この数年一緒に過ごせなかったときを一生懸命埋めるように。
私は思った。
母は山を越えた大学病院に転院してまで私の近くに来たかったんじゃないか。
私は私で、両親の役に立つことをこんなに切望していたんだ。それが今回の現実を創り出したんだ、、と。
昨年末から受講している『はるちゃん』こと新海晴美さんの『円満ライフメソッド』→https://yurushiiro.love
講座には個人セッションもついてくる。
母とのことも何度となく主訴にあげた。
私は母と以前のような関係になりたい。元に戻りたかった。
母と私との間に深くできてしまった溝をもう2度と埋めることができないのではないかと嘆く私に、はるちゃんは優しく言った。
『元に戻るってどういうこと?そんなことありえると思う?』
絶え間なく移ろいゆく日々の中で、昨日とまったく同じ今日がないように、
人もまた自覚せずとも少しずつ変わっていくものだ。
そんな中で私と母の関係もまた『元に戻る』ということなどありえない。
これからは『新しい関係を築いていく』のだということを教えてくれた。
今回の母の入院で『たわいのない会話』が実現し、一見元に戻ったともとれるが、これは新しい関係なのだ。
お互いにこの数年いろいろと葛藤し、苦しんだ。そんな私と母がつくった空間だったんだ。
不器用ながらもお互いの想いはきっと一致してる。
『余計な心配はかけたくない』
『邪魔はしたくない』
『元気でいてくれたらそれでいい』
父と母にとって私は最初からかけがえのない娘だった。
『必要とされてない』
『いてもいなくても同じ』
『いない方がいい』
そんな無価値観、無力感、虚しさに囚われていた私は
今やっとその鎖をはずすことができそうだ。
今から約5年前、40歳で遅れてきた反抗期をやって母を罵りひどく傷つけた。
そんな自分を死ぬまでゆるすことはできないと思い続けてきた。
今でもあんなことはなかった方が良かったと思うけど、
でもそれがなければ私はずっと母への苛立ち、怒りを眠らせたままやっぱりどこかで爆発していたか、表面だけの関係でいたかのどちらかだろう。
今年も残り2日となった今日、いろいろとお土産を下げて両親の元へ行ってきた。
『忙しいだろうに悪かったね。』という両親に
『私が会いたいから来たんだよ。』と答えると、2人が『ありがとうね。』と、それは嬉しそうな顔をした。
私の胸が愛で溢れた。
こんな日が来るなんて。
母の病気は本人にとったら怖い思いや苦しみを味わったし、まだ治療も続いているけど、私と母との距離を一気に縮めてくれたのも事実だ。
実家を後にした私は幼い頃を過ごした懐かしい故郷の景色と雄大な富士山を眺めながら、ありとあらゆるものに感謝で胸がいっぱいになった。
私の面倒をみてくれた祖母のお墓にも立ち寄った。
父がまだ子どもの頃に亡くなった私の祖父や、そのまた上の代、そのまた上、、、
ご先祖様や親戚への感謝なんて、これまでしたことがなかった。
今年もいろいろあった一年だったけど、起こったすべての出来事や出会った人たちにありがとう。
そしてお父さん、お母さん、ありがとう。
待っててくれてありがとう。
また一緒にご飯を食べたいよ。
だからまだまだ元気で長生きしてね、、、!