長女の中学卒業の際に先生がくれた手紙に
「4月から新しい自分で頑張れ」というようなことが書いてあって、心底ガッカリした経験がある。
中学に途中から行かなくなった娘を否定してるんだもの。
先生の中にある
『学校に行くことが正解で行かないことは不正解。』
『行くことは善で行かないことは悪。』
『行くことは頑張ってることで行かないことは頑張ってない。』
『頑張ってないのはダメなこと。』
そんなものがアリアリと伝わってくる。
娘にくれた言葉は先生にとっては精一杯のエールだったのかもしれないけど、当事者にとっては残酷な言葉だと今振り返っても思う。
よく「子どもを信じて待つ」って耳にすることがある。
それはとても忍耐のいることで、それをやっている親は親としてさぞかし立派なことをしてると錯覚しがちだが、
私はそれってとても危ういことだと思っている。
ちなみに、ここで言う『待つ』は
小さな子どもが自分で何かやろうとしてるのを手出ししないで待つ、、とは別の『待つ』です。
『待つ』って、
いったい何を待っているの、、、、、?
学校に行くようになること?
学校には行けなくても別の場所に行けるようになること?
勉強し出すこと?
口ごたえばかりの子が素直に親の言うことを聞くようになること?
夢を見つけること?
好きなことを見つけて没頭すること?
昼夜逆転が一般的な生活リズムになること?
大体の場合が、いま親が良しとしていないことが改善されることだったりする。
『ひどい悪態をつく子も親が辛抱強く見守れば、きっといい子になる。』とか
『毎日ゲームや動画漬けでも、やりたいことが見つかって生き生きとする』みたいな。
つまりは、いま目の前にいる子どもを否定していることにつながる。
今と違う状態になることを期待しているのだ。
『挫折を乗り越える』とか『立ち上がる』なんてことばも使われがちだけど、
まさに今を否定してるから私は嫌いだ。
不登校になり親も子も傷つくことは多々あれど、
その事実を親が否定的に捉えてる限り、子は自分の人生にいつまでも暗い影を落とし続ける。
今は大人になった不登校当事者の方と話す機会もたまにあるのだが、
ある人は「不登校だった自分もいた」、、、と、当時の自分がいたからこそ今の自分に繋がっている、、、と言わんばかりにすっかり自分を生き、
ある人は「不登校はなかった方が良かった」ものとして当時の自分を責め親への申し訳なさを抱えたまま生きている。
それを分けるものは、やっぱり悲しいかな当時の親の在り方だ。
ただ、これを読んで今自分を責めてしまう親御さんがもしいたら、どうか責めないでほしい。
親として十分でない自分を責める気持ちは多かれ少なかれ多くの親が持っているもので、
それは学校に行っていようが行っていまいが、子どもがいわゆる優等生だろうが不良と呼ばれるような子であろうが、
どんな場合もあり得ることだ。
自分を責めるということは、自分の子育てを責めてるということ、
すなわち自分の子どもを否定していること。
「私の育て方が間違ってたのね、、、」ってやつだ。
そんなふうに思われた方はたまらない。
子どもが欲しいのはなんの評価もなくただ見守ってくれる眼差しだけ。
どうか過去でも未来でもなく、今目の前の子どもを見てあげてほしい。
ちょっと厳しい言葉を並べたように思うが、
あなたの子どもは素晴らしいのだ。
あなたが思うよりもずっと。
本当は気づいているのではないですか?
あなたが感じている気持ちは本当です。
親を困らせず学校に行ってれば可愛いわが子なんですか?
自分の子どもを素晴らしいと思っていいのです。
何かができるとか
優しいとか
ありがとうが言えるとか
そんなことよりももっと前に
ただいてくれるだけで
その存在そのものが素晴らしい
本当はそのことを知っていますよね?
今日はぜひ「あなたのことを本当に大切に想っているよ」
「かけがえのない自慢の子どもだよ」
そう声をかけてあげてほしい。
突然そんなこと言えるわけない?
照れくさかったらメモに書いたりLINEでもいいのです。
それでもできませんか?
明日死ぬかもよ?