もういい加減自分のために生きよう。
あるきっかけがあり、深いところからそう思えた気がしている。
この気持ちが続くかわからないけど、
ずっと手放せなかったこと、諦められずに苦しんでたことが、私の中からフッと浮かんでいくような感じがした。
今まで私は誰のために生きてきたんだろうか。
そう考えるとやっぱりそこには親がいる。
いい娘でいたいし、いい嫁でいたいのも結局親のためな部分もあるし。
それに、世の中には子どもを理解しない親なんていくらでもいて、自分の親もその中に入るのだろうけどどこかで「私の親は違う」って最後まで信じたい自分もいて。
だから聞き分けのいい子になろうとして、
親にだって事情があった、
親なりに愛してくれていた、
なんて、自己探究で学んできた言葉たちを並べて、無理やり自分に言い聞かせるようなことをこれまではやってきたんだ。
いい人を捨てるのは怖い。
義母に対してずっといい嫁やってきたから。(これだって私がそう思ってるだけで、義母がどう思ってるかなんてわからない。いい嫁だと思ってくれてたかもしれないし、そんなことこれっぽっちも思ってないかもしれないし)
そうしてこれまでの自分から一変、ここにきて態度を変えるのはズルいと思う自分がいる。
これは過去に別の人で何度か同じ経験をしており、同じ状況を自分が創り出していることにも気づいている。
表面はいい顔して、優しい人やって、
それなのに心の内は、その相手を非難している。
そんなことを長いことずっとやって、いつしかそれが我慢の限界を超えたところで爆発。
結果、その相手は激怒し、私を非難する。
私は自分のことをとても冷たい一面を持ち合わせた人間だと思っている。
そしてそれを認めたくない自分もいる。
でも諦めよう。
私の中にある黒い部分を認めて寄り添ってあげよう。
そんな自分もいるよね、、、ダメじゃないよ、、、。
こんな心境になったのはあるきっかけと、極め付けは昨夜、
冬用の厚い掛け布団を出そうと開けたクローゼットにあった昔の日記帳。
ずっとそこにあって景色になっていた段ボール箱が昨夜は目に入った。
何が入ってたっけと中を見ると懐かしいものがいろいろ出てきた。
その中に完全に忘れ去られていた日記帳。
まあまあ厚いそのノートにビッシリと書かれた文字。
長女が生まれた頃からほぼ毎日つけていた日記だった。
そこには、初めて授かった命への喜びと、愛おしくて仕方ない気持ちが綴ってあった。
そして初めてのことだらけの育児に「強くならなきゃ」「頑張らなきや」と繰り返される言葉。
守るべき存在を得て変わっていこうと奮闘する新米ママの自分がそこにいた。
そして娘の成長と共に育休が明けた後の不安が出てきて。
夜勤もあるような不規則勤務の仕事に復帰してやっていけるのか、
こんなに可愛いこの子を人の手に委ねることなんかできるのかと葛藤する様子が書かれていた。
結局私は悩みに悩み、まわりの人の助言なんかもあり、育休の途中で退職。
後悔はない。
あのときの決断は正解だったと今になってもずっと思えている。
私は自分が大切にすべきものを見失わなかったのだ。
その決断をした新米ママの私が、時を経て今の私の背中を強く押した。
そうだった!私が大切にすべきものは何よりも子どもたち、そして夫と自分だ。
なんでこんなに大事なことを見失っていたのだろうか。
私にとっていい娘、いい嫁をやめることは、嫌われる勇気どころの話じゃない。
極悪人になる覚悟なのだ。
義母からどう思われるだろうという恐れに加え、まわりの人からもガッカリされたり見下されるんじゃないかという不安もある。
まわりの人からは、私は嫁として本当によくやっていると言ってもらえることも多いけど、やっぱり自分には厳しいからそんなふうには思えない。
でもいい嫁をやめて罪悪感まみれで毎日暮らしたところで、私が態度を変えないのなら、いっそ開き直って楽しく自由に暮らしたほうがよっぽどいい。
そうして先に自分を満たして、余った分をまわりの人にできることに使えばいいのだ。
さんざん学んだことのはずなのに逆だった。
そういう自分でいるのが自分のためだと勘違いしていた。
今回このような境地に至るにあたったきっかけを与えてくれたのはある3人の人物だ。
そのうちの2人は今ご自分の病気と向き合い、前を向いて生きている。
そしてあとの1人は、初めて母親になり毎日手探りで泣いたり笑ったり奮闘していた過去の私、、、。
昨夜寝る前に「もういい加減自分のために生きる!」
って、エイって引いたOSHO禅タロットが『TRANSFORMATION』!
日本語では「変容」のカード。
「さむっ!てかオショーさん、すご!」
現実の生活(義父の介護問題について)はまだスッキリしない部分もあるけど、私は苦しみのトンネルからいったん抜けたようだ。
ここに至るまでに、いろんな人に相談したりこぼしたりしたこと、そしていっぱい考えたり感じたことが私の宝のように思う。